私が日本リザルツに働かせていただいてから約二か月が経ちました。何もわからずに飛び込んだこの世界。地元の求人情報に「現地のスタッフ募集」「高齢者の見守り支援」「ボランティアを泊める宿の管理人」等、記してあり・・・以前より、高齢者の見守り支援。高齢者交流会の企画等を立て開催することが好きだった私は、軽い気持ちで応募しました。それからWEBでの面接が実施され、すぐに「明日から勤務」と言われたのには驚きました。今までにこんな急に採用され、そく勤務する職場はなかったからです。とにかくこの「日本リザルツ」という船に乗ってしまった。後戻りはできない。私も地震を経験した被災者だけど、じっとしているよりは仕事をしていた方が気持ちが紛れる。そう思い、漕ぎだしました。
だけど、この仕事は考えていたような物ではありませんでした。現地で一人で活動。何をどうすれば良いのか、全然気持ちに余裕がありません。良かれと思ってやったことは注意され、そんなことが幾度か続いたある日、私の張り詰めていた気持ちが爆発したのです。日頃の思いをメールにて訴えました。
そんな時に、元日本リザルツに勤務されていた「吉田美紀」さんの記事やブログを読むことを薦められ、さっそく自宅でネット検索し熟読しました。
こころに残ることばは「現状はすぐには変えられないけれど、これはおかしい。と声を上げられる人がいないといけない。今後もその役割を担えたらと思う」と語っています。
その時、取材された記者も書かれていましたが、吉田美紀さんは只々、「格好いい女性」です。お会いしたことはありませんが、努力家で自分の意志をしっかり持たれている方だと感じます。
吉田さんは普通のレールとは異なる道を歩んで来られています。30歳の時に国連職員への挑戦。いろいろ困難はあってもしっかりと夢をかなえています。(凄い尊敬します)
いきなりですが、私の人生はどうだったろうか?
決して裕福な家で育った訳ではなく、親からはお金がないから高校へは行かず働いて欲しいと言われ悩んだあげく働きながら勉強する定時制高校の道を選びました。私の人生はその時に経験した「自己との闘いの4年間」で人間形成が出来ました。まだ15や16歳の時に家に仕送りする生活でした。親は頼れない。何でも自分で決めて自分で生きて行かなければ・・・そんな思いがこの年齢になっても根付いています。
私の家族は福祉の支援に助けられて生きて来ました。私がずっと福祉業界で働いて来たのも、家族が世話になったお礼を恩送りさせていただきたいと思うからです。
もし、お金に余裕がある家庭に育ったならば、普通の高校生活を送れていたならば・・・。
まったく別の人生を歩んでいたのではないでしょうか?でも、今までの人生は決して不幸だとは思っていません。何事にも感謝し前を向いて歩んで来ました。
今朝もニュースでガザの子供たちの様子が流れました。
ガザの子供たちを守ってあげたい。私に「戦争を止めて」という力があるならば・・・助けてあげたい。この子供たちを・・・。
日本リザルツの理念「私たち一人ひとりに世界を変えていく力がある」の言葉を信じ平和な世界になるよう願わずにはおられません。
生まれた場所も親も自分では選べないけれど、吉田美紀さんの生き方や思想から今の私の気持ちはこう変わりました。復興にむけて「今、私にできることをこの能登でさせていただこう」そう思えるようになりました。
(けいたん)
北陸は雪も降り出し厳しい冬がやってくるでしょうが
お身体に気おつけて活動なさってください
よろしくおねがいします。